ちょっと長めに眠ったんですね。そうしたら目が覚めたとき、おきると同時にメロディーを口ずさんでいたんです。これ自体とてもすてきなことなんですが、なんと驚いたことに、そのメロディをぼくはドレミで認識していたんです。思いついたメロディーをドレミで歌っている!?もっと言うならドレミで思いついている!? 今回はこの体験について気づいたことをまとめてみます。
この記事でわかること
- 小さな変化でも記録しています
- 何が違う?
- できるようになることの意味
初めて起きたこと
今回が生まれて初めての経験でした。そしてPSS-A50ですぐひいてみたところ、何とおどろいたことにそれはピッタリkey=Cのメロディだったんです。もちろん偶然の可能性もあります。しかし、よく使う音程をある程度は覚えていると言えるのではないでしょうか?そこもふくめ全体がたいしたことではない()と思われるかたもいらっしゃると思いますが、このブログではこうした小さな変化も見逃さないようにしたいと考えています。
鼻歌とのちがい
鼻歌の特長はなにか?と考えてみたのですが、鼻歌の場合はまだメロディがdrmでわかっていない状態と言えるのではないでしょうか。裏を返せばわかっていなくても実はメロディは歌えるし、それはすばらしい人間の能力とも言えます。ただ、そこから先。自分でもメロディを作ってみようと思う時。自分のつくったものがdrmでどこに該当するかがわかることがとても大切になってきます。
音楽をやっていて一番苦しいのは
自分がなにをやっているのか自分でわかっていないことだと、自分の経験からは思います。アウトプットができることはできるんだけど、思った通りにはならない。今のAIみたいですね()。上手く行かないことを繰り返していると、なにか「もがいている」ような感じになります。
回避するためには
わからないことを少しずつなくしていくことです。具体的にはまず音楽のベースとなっているdrmの音階の感覚をみにつけることです。これがわかるととても楽。今回の経験もその流れの中にあります。音階の感覚がみについてきたために、旋律がどこにあてはまっているのか、感じ取れるようになった。「メロディをdrmで思いつく」というのはその結果だともいます。
言葉に例えると
外国語を習う場合のことを考えてください。意味は分からなくても、外国語の単語の音をまねすることはできますよね。鼻歌というのはそういう状態に例えられると思います。ただ、その言葉の意味をわかって適切に使おうとするなら、自分が「何をしゃべっているのか?」を知る必要があります。ここでdrmでわかることが必要になってきます。
意味を理解するための枠組み
言葉の場合も文字や単語、文法がありますが、意味を伝えるためには、意味が理解できる「枠組み」が必要です。音楽の場合、drmfsltの7音の音階とそれから作られるダイアトニック(基本)コード7つがあります。
鼻歌がどの音から始まったとしても
それがdrmfsltのどれなのかか感じられさえすれば、そこからはdrmで歌うことができます。drmの枠組みがあると、そうしたことが可能になります。当然dがC4(ピアノの真ん中のド)ではない可能性もあります。でも全然心配いらないんです。
12は多い?
dになれる音はあえてそう言わせていただくと「たったの」12個しかありません。これは確かに音楽に興味がない、歌や楽器ができるようになりたいとすこしも思っていない人にとっては「多すぎる」数字でしょう。しかし、真剣に歌が上手くなりたい、楽器がスラスラひけるようになりたいと願っている人にとってはけっして「多すぎない」数字だとぼくはおもいます。
音楽はあくまで趣味の問題
音楽をそれを聞いている人の性格と結び付ける議論があるのですが、そもそも音楽のジャンルとテーマには関係がありません。なのでどんな性格のひとがどんなジャンルの音楽をきいても不思議はありません。それにくわえて当然のことですが、音楽をみにつけるにはこうした性格でなければならないといったこともないはずです。趣味の音楽なら、本来性格とはかかわりなく好きなものを自由に選んで学ぶことができるからです。
性格がわざわいする?
性格について検索してこのブログに来てくださる方もたくさんいらっしゃるのですが、自分あるいは相手の性格というのは、それだけ人間にとっては興味の対象なのかもしれません。しかし、自分を振り返ってみると音楽ができなかったのは自分の性格が原因ではなかったと思います。
自分の経験で言えば
音楽に関しては必要な知識を集めることとそれを習得する適切な段階や手順を踏むこと、この二つが自分はできていませんでした。音楽もそうですが、語学や自転車に乗ることなど、普通の人があたりまえのようにできていることには、すべてにあてはまることなんじゃないでしょうか?なので、自分の「できることと・できないこと」を性格が決めているというふうに考えるのは僕はまちがいだとおもいます。理由は正しい手順を踏んだことで「できていること」のほうが数としては圧倒的に多いからです。これはだれにとってもあてはまることです。そして、たまたま現在「できること」がその時点での「まわりから見た」性格を決めているだけ。そんな風に考えることはできないでしょうか?
できなかったことの悪影響とは
性格ではなく自分に悪影響をあたえるものがあるとしたら「こころからやりたいのにできていない」という「思い」の方ですね。たったひとつの「できない」であっても、それが自分そのものに大きくかかわってくるものだと、自信や積極性すら失わせる原因になります。本来の自分を生きられないことは人生に暗い影を落としかねません。これらすべては自分の話として語っています()。「音がわかるようになった」ただそれだけのことですが、これまでにない晴れやかさを経験しているところです。
「自分にもできるんだ」
というわけで「できた経験」を積み重ねることは、なににおいてもめっちゃ重要。これは単なる自己満足とは違います。なぜなら満足はすこしもしていないからです()。ただできるようになったことを喜んでいるだけ。ポイントは「人から見てそれがどう見えるか?」というのは、当面その「経験の自分にとっての価値」とはまったく関係がないということ。重要なのは自分に起きた変化を楽しみながらスキルをみにつけていくことです。それだけで趣味としては十分楽しいですし、レベルが上がってくればいつの間にかひとなみの平均をこえているかもしれません。まわりから見てどう評価されたいのか?というのはそれから考えればよい話です。とくにプロという事で言えば、ただやりたいことというよりは自分の能力や技術で「求められるもの」をつくるという考え方も重要になってきます。
「どうあるべき」は自由
音楽は主題もやりかたも自由なテーマです。内容の多様性からすると、こうあるべきというスタンスで話をすること自体がどうしても的外れのように感じてしまいます。なので、どう考えて取り組むかは自由。ここでの内容も「こうあるべき」という考えかたではなく、あくまでぼく個人の考えです、自分はこう感じるということでしかありません。
AIは自由をあたえてくれる?
Sunoのように音楽制作の枠組み自体をかえるものも出てきているわけですが、自分が理解し使いこなしている技術や手法をつかってオリジナルなものを作ることが目的ならば、いくら仕上がったmp3をAIから手に入れたとしても、自分の「できない」を解消したことにはなりません。AIツールが増えても本当の意味での自由を手にいれなければ「音楽のもやもや」は解決できない。僕自身はそんなふうに感じます。逆に自分にスキルがついて、AIの提案を自分の技術でさらによりよいものに自由自在に仕上げられるようになったら、そのほうがめっちゃ楽しいのではないでしょうか?超優秀なアシスタントをやとったようなものですから。
自分の納得
そんなわけで「音楽」に限らないのですが、それが自分自身の存在に深くかかわっているのであれば、正面から向き合って、自分が納得できるところまで取り組んだ方がいい、と思います。理由は達成したレベルに応じて「自分にもできる」という自信がつくから。今回の経験を通じてぼくがいちばん感じていることです。それと同時に「自分が決めている」という自由の感覚は人間にとって、とても大切。そのためには「自分が何をやっているのか」わかる必要がある。というのもあわせて思ったことです。このブログではひきつづきいろいろ楽しんでやっていきます。また次回お目にかかりましょう。
<参考リンク1>
以前もやもやの原因のたとえに出している「ルービック・キューブ」ですが、なんと解法が確立されていました。このブログも「音楽のもやもや」を抱えている方に同じような役割を果たせたらいいですね。なおルービック・キューブはパズルなので簡単な解法といってもじゅうぶん複雑です()。これにくらべれば音楽はずっとシンプルです。
<参考リンク2>
大人の自転車教室というのもあるんですね。誰でも当然のようにできると考えられがちですから、地味かもしれませんが社会的に必要なことだと感じます。以前職場であたりまえのように自転車の高いスキル(街中で高速を出す)wを求められたことがあったのを思い出しました。